沖永良部高校での想い出
文 化 祭

昭和50〜52年 1975〜1977
今聞くと恥ずかしいが、良き想い出です。
音源の保管状態が非常に悪く、お聞き苦しくなっております。

曲名をクリックするとバックグランドで再生されます
データーはmp3,64kbps,44kHz,Stereoに圧縮してあります。

高校一年の文化祭
メンバー 下のリストから選曲してください
         さぐや姫
 藤井明人 ギター ボーカル(伊延)
 脇田昇 ウッドベース(国頭)
 南良一 ギター ボーカル(国頭)
 1.神田川
 2.目を閉じて
 3.僕の胸でおやすみ
 4.落ち葉の舗道

高校二年の予選会?
メンバー
 作田直美 ボーカル(国頭)
 田原義仁 ボーカル(上手々知名)
 池上幸栄 E・ギター (国頭)
 脇田昇 E・ベース(国頭)
 南良一 ギター(国頭)
どなたか音源をお持ちですか?

高校二年の文化祭
メンバー 下のリストから選曲してください
沖永良部・ダウンタウン・ブギウギ・バンド
 田原義仁 E・ギター ボーカル(上手々知名)
 池上幸栄 E・ギター(国頭)
 脇田昇 E・ベース(国頭)
 南良一 ドラムス(国頭)
 1.メンバー紹介
 2.港のヨーコ 横浜 横須賀
 3.君といつまでも
 4.スモーキンブギ
 5.文化祭エンディング-君といつまでも-
写真をお持ちの方ご連絡ください

高校三年の文化祭
メンバー 下のリストから選曲してください
 山川裕子 ボーカル(小米)
 山畑鈴代 ボーカル(小米)
 宮内茂 E・ギター ボーカル(国頭)
 池上幸栄 E・ギター(国頭)
 脇田昇 E・ギター(国頭)
 南良一 ドラムス(国頭)
 1.恋の夜行列車
 2.ルージュの伝言
 3.初恋の絵日記
 4.二十歳のめぐりあい
 5.サタデーナイト
 6.みかん色の恋

山川裕子の琉球舞踊
川間元達&石原定義
谷本俊秀&春日陽伸


我々の活動を支えてくれたのは島人でした!

当時我々は、これだけの楽器を自前で持っていたわけではなかった。
自前の楽器はアコースティックだけだった。
私はギターもなく自宅にあるのは親父のさんしぬだけだった。
しかし、それは先祖代々の家宝だと触らせてもらえなかった。
そんな時、親戚の叔父さんを鹿児島の病院に入院されるのに親父が同行した。
だがしかし、そこで同行したはずの親父が倒れ脊髄カリエスと診断され緊急入院することになった。
介護が必要とのことで、おふくろと弟も付き添いで鹿児島へ行ってしまった。
島に残ったのは妹三人と俺だけだった。この生活が一年も続いた。
当時流行っていたベンチャーズの曲を、親のいない間さんしぬで弾いていた。
もちろんチンダミ(チューニング)方法を知っていたわけではなかった。
親父達が帰ってきてからも、さんしぬでベンチャ−ズを弾いた。
えらい剣幕で怒られた。親父が留守の間にまた弾くが見つかり怒られた。
親父が言った「このさんしぬがあったおかげでお前は生まれたんだ」。
親父はこのさんしぬでおふくろを口説き落としたらしい。
そんな事、俺にはどうでもよい。ただ弾きたいんだ。
とうとう、さんしぬを隠されてしまった。そんなことでは収まりがつかない、見つけ出した。
ある日、おふくろにいい話を聞いた。「島唄を弾いていれば怒らないんじゃない」
そこで、わざと親父に聞こえるように島唄を弾いた。親父は怒らなかった。
この日から親父の前では島唄を弾くことにした。親父は喜んでさえいるように思えた。
しかし、そんなことは長くは続かなかった。親戚の勇次兄ちゃんに白いギターをもらった。
これで、四十歳になるまでは、さんしぬを余り手にすることはなくなった。
ギターを貰ったのはいいが、幸栄が弾いた後はチューニングが違うから俺には弾けなかった。
俺は自分流のチューニング方法でしか当時弾けなかった。一本弾きだったが。
幸栄にチューニング方法を教えてもらう。
昇はギブソンを持っていた。いい音がした。コードやストローク、ピッキングがあることを教えてもらった。
昇の家にはレコード・プレーヤーがあった。「カリフォルニアの青い空」をよく聴いた。
どんどん、フォークソングにはまっていった。
藤井明人に、いっしょにやらないかと誘われた。当時流行していたかぐや姫を中心に練習した。
学校帰りに明人(伊延)の牛小屋の二階で練習した。
中学一年の時、音楽担当の村山先生に文化祭に向けてウッドベースを弾いてみないかと言われ練習した。
かぐや姫をやるにはベースは欠かせなく、村山先生にお願いをし本番まで借りた。先生ありがとう。
高校2年の秋に田原義仁先輩にバンドをやらないかと誘われた。
楽器を持っている人を探した。
通村こうじ先輩にエレキギターを2本貰った。一本はベースに改造した。
田中宏亘先輩にもエレキギターとアンプを借りた。
ドラムを借りることは出来なかった。
キャバレー「波の上」にドラムがあったので開店前まで練習させてもらったが、友達のお父さんに見つかり練習所を失う。
とうとう自分で買うことにした。牛乳配達のアルバイトをした。牛乳をじかに仕入自分の店にも下ろし。
国頭中の家を廻りお願いをしたが50件ぐらいだった。
妹達が協力してくれ親を説得し頭金を借り購入することが出来た。
そんな妹が好きだったベイシティーロラーズをやってくれと頼まれ、断れなかった。
妹はタータンチェックの衣装まで作る熱の入れようだった。
バンドスタイルで練習するには、広いスペースが必要だった。
当時、空港で働いていた近所の龍夫兄さんがバンドをやっていて、その練習場を借りて練習をさせてもらった。
本番には楽器まで借りることが出来た。親父に学校へ楽器を運んでもらった。
龍夫兄さんにはずっと甘えっぱなしでHONDAの750ccのバイクもいつも俺が使っていた。
中村ヨシヒロ兄さんには車を何度も借していただきました。

我々は、島中の人たちに沢山の協力をいただき活動することが出来た。

ふってーしく みへでぃろど!


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